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2022.10.07

広松由希子のこの絵本のココ! 連載第2回 『いぬ』ショーン・タン 岸本佐知子訳


第2回
『いぬ』ショーン・タン 岸本佐知子訳(河出書房新社 2022年7月)


 

 鳥肌!
 

きた。鳥肌。ページをめくる指から血が逆流し、体を駆け巡り、全身の毛が逆立つような。「これが絵本か? これが絵本だ!」と心で叫ぶ、得も言われぬ絵本の快感である。

かつて、わたしときみとはまったくの他者だった。」と始まる、わたしときみ、人と犬の関係。
 


 

 文と絵の自立


この「絵本」では、絵と文は共存しない。文だけの見開きがあり、絵だけの見開きがある。文を読む行為と、黙ってめくる絵を読む行為。交互ではなく、それぞれに集中する時間が、巧みに繊細に構成されていて、読者の内で交じり合う。
 

 

珍しい構成だが、この話は、もともと『内なる町から来た話』(ショーン・タン 岸本佐知子訳 河出書房新社 2020)に収められた25話の動物寓話の一篇だった。挿入される見開き断ち落としの絵は、どれも油彩で100x150cmと、タブローとしても1枚ずつ見応えのあるもの。テキストが長めの小説集ともいえる体裁の本で、なかでも「いぬ」は異色だった。

すべての画面の見開きを対角線状に分断する、太い色の帯がある。それは、わたしときみを隔てる深い溝。並んで歩く道。死の川のほとり。時の流れ。紅葉の森。砂漠。雪。戦争。何度も何度も異なる時代、異なる場所に生まれ変わり、その度に出会うことなく、背を向け合って存在していたわたしときみ。
 

 

息を呑み、連なる絵に目を見張り、ドキドキめくりながら、不安になる。この体験の先に、よもや陳腐な結末が待っているのではあるまいかと。
 

 ひたむきな希望


「そして、わたしたちはふとまたいっしょになった。」
川の流れも、草原も、空も、逃げてゆく時間の流れも、昔とはちがう今を、沈鬱な時代を、行方のわからない現代人の心を、ショーン・タンは切実に見つめ、ことばにし、切実な希望の絵につなぐ。

犬たちのもつ、特別な「ひたむきな希望」が、わたしたちを救い導いてくれる。
世界はぼくらのものだ!

鳥肌の二乗。杞憂を恥じた。犬のおかげで、今日読んだ絵本『いぬ』のおかげで、明日に絶望しないで生きられる気がする。
 

 もう一冊読むなら……


こんな絵本の鳥肌体験は、むやみにあるものではない。そんなにあったら、血管がもたない。でも時たまあるから、絵本を読むのはやめられない。

この一冊だけ繰り返し読むのも、もちろんいい。断然いい。でも先述の『内なる町からきた話』の25話を読み、また「いぬ」だけを読みくらべてみるのも、一興。ほとんどページ構成は変わっていないけれど、ほんの一部の変更がもたらした、読み心地の変化。装丁と本文デザイン、微妙な訳語のちがい、そしてあとがき。「いぬ」の絵本化の凄みに、あらためて感じ入る。
 


 

 

 

 

広松由希子(ひろまつゆきこ)/絵本の文、評論、展示、講座や絵本コンペ審査員などで活躍中。2017年ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)国際審査員長。著作に絵本『おかえりたまご』(アリス館)、「いまむかしえほん」シリーズ(全11冊 岩崎書店)、『日本の絵本 100年100人100冊』(玉川大学出版部)、訳書に『ナイチンゲールのうた』(BL出版)、『ヒキガエルがいく』(岩波書店)、『うるさく、しずかに、ひそひそと』(河出書房新社)など。MOE2022年1月号より「日本の絵本 100年100人100冊」を連載中。2020年、絵本の読めるおそうざい屋「83gocco(ハチサンゴッコ)」を東京・市ヶ谷にオープン。www.83gocco.tokyo



83gocco(ハチサンゴッコ)は、絵本の読めるおそうざい屋です。団地の一室をリノベーションしたささやかなスペースですが、和洋中エスニック……さまざまな日替わりのおそうざいと、セレクトされた国内外の絵本をお楽しみいただけます。世界各国の絵本関連展示のほか、子ども向けの文庫、大人向けの絵本イベントなど、状況を見て、ぼちぼち開催していく予定です。 最寄り駅は大江戸線牛込柳町。神楽坂、市ヶ谷、曙橋も徒歩圏内。お散歩のついでにお立ち寄りください。*今はテイクアウトのみで営業中です。

えほんとごはん 83gocco
東京都新宿区市谷加賀町2-6-1 市ヶ谷加賀町アパートA-102  営業時間/11時〜19時 定休日/日・月 ・最終土曜

 
   
「83gocco(ハチサンゴッコ)」店内 撮影/志田三穂子

 
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