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2021.06.14

広松由希子のこの一冊 ―絵本・2020年代― 連載第8回 堀川理万子/作『海のアトリエ』



第8回 記憶と水彩
堀川理万子/作『海のアトリエ』
(偕成社 2021年5月刊)



 ページをめくる指が止まる。呼吸を深くしながら、一枚一枚の光景に見入る。自分の底のほうに沈澱していた記憶が、かき混ぜられて浮かび上がってくる。『海のアトリエ』は、堀川理万子さんの水彩画の髄を味わえる、特別な絵本だ。
 

 

 
 絵本作家である前に、タブロー画家でもある堀川さん。私は彼女の描く静物画に、長いこと魅せられてきた。想いのこもった眼差しを受けとめて、そこに存在する物たち。悠々と黙っていたり、くすくす笑っていたりする。
 それから、空気や光や時間をたっぷりふくんだ風景画もいい。その絵の片隅に潜り込み、自分のあれこれを思い出したり、ぐるぐる考えを巡らせたりするのが好きなのだ。

 堀川さんの絵本は、動かない。というか、動きのある線が物語る絵本とは、別物。むしろ瞬間をすくいとった静止画のなかに、豊かな物語がある。
『海のアトリエ』では、作者自身の記憶の集積が、一枚一枚にこめられているようだ。ふくよかなディテールと、おおらかなフレームが、それらを引き立てている。

 たとえば、第一場面。最近「わたし」がいっしょに暮らすようになった、おばあちゃんの部屋。ふたりは時々この居心地のいい部屋で、お茶を飲みながらおしゃべりをする関係だ。どんなに居心地がいいかって、読者にもすぐ伝わる。ここには、おばあちゃんの記憶のこもった物たちが、それぞれの居場所にたいせつに置かれている。

 

 


 棚の上の陶磁器は、伊万里の染付? 数年前に堀川さんのタブローのモチーフになっていた記憶がある。椅子に座ったぬいぐるみの不細工なかわいさには、長年愛されてきたリアリティがある。本棚にはおばあちゃんの愛読書、古いクロス張りの漱石全集や、洋書もいろいろ並んでいる(おばあちゃんは英語の先生だったと後でわかる)。そして、たぶん先に亡くなったおじいちゃんの横顔の白黒写真の下に、おしゃれな遺品のネクタイがぶら下がっているのに、ぐっとくる。見れば見るほどきりがない、こうしたディテールのひとつひとつが、実在のものも架空のものも、この絵本の濃密な懐かしさを醸し出している。

 壁にかかった古い絵に「わたし」は目を留める。
「おばあちゃん、この子はだれ?」「この子は、あたしよ」。
おばあちゃんの一人称は「あたし」(孫に話す二人称は「あなた」)。この絵を描いた特別な人との子どもの頃の思い出を、おばあちゃんが孫に語っていくというのが、この絵本の設定で、大きなフレームになっている。そして、一枚一枚の絵を、紙地を生かした白いフレームが縁どっていて、記憶の印画を印象づける。

 

 

 
 いろいろいやなことがあって、学校に行けなくなり、夏休みもひとりで家に閉じこもっていた「あたし」は、母さんの友達の絵描きさんに誘われ、海辺のアトリエに泊まりにいく。本を読み、海へ行き、食事や家事をし、絵を描き、美術館へも行き、逆立ちをし……1週間をふたりで過ごす。

 天井の高いアトリエの、窓は朝も夜も開いていて、潮風が通る。日常とちがう、ゆるやかな時間が流れる。適度なほったらかしと、ゆかいな思いつきの共有。絵描きさんは、子どもを子ども扱いしない大人だった。

 ふたりは、並んだり、向き合ったり、離れたり、また近くに寄ったりはするけれど、べったりくっつくことはない。唯一物理的にくっついたのは、足に絵の具がくっついて動けなくなった「あたし」を絵描きさんが抱えて風呂場へ連れて行く場面だけ。そう、もしも溺れたら助けてくれる、きっと本当に困ったら手を差し伸べてくれる大人なのだ。でもじっと見張ったり、心配したりしない。親でも先生でもない、風通しのよい関係(つかず離れずの猫の位置も絶妙)。この心地よい距離感によって、「あたし」は、次第に開放されていく……この距離感は、「あたし」と「わたし」、おばあちゃんと孫(こちらは傍に犬)の関係にも通じるようだ。

 絵描きさんは、堀川さんが幼い頃に近所に住んでいた、絵の先生の思い出が発想の糸口になったらしい。人生の初めのほうにいた、だいじな人。忘れたくない、だいじな記憶。子どもたちのそばに、こんな大人がいるといい。また、そうした存在がこの世にあるということを思い出すだけで、胸にすーっと風が通る気がする。

 

 

 
 松本竣介や古賀春江、ミロスラフ・サセックの“This is Paris”……尽きない発見の愉悦に浸りながら、『海のアトリエ』を何度も読み返すうちに、気づく。おばあちゃんの幼少の回想場面が、こんなにも見る者を揺さぶるのは、目に見える事物の向こうにあって、ふだん見過ごしながら無意識で感じているディテールにあることに。

 それは、空気や光、揺らぎや透明感といったもの。 ガラスの映り込みや床の反射、紅茶の湯気に招かれ、シャボン玉やガラスの引き戸の屈折、蚊取り線香の煙に迎えられて、私たちはいともたやすく半世紀前の海辺に運ばれる。モダンな照明のあたたかい光、月明かりとまばゆい朝陽。豊かな光と影。揺れるものと映り込むものによって、知らず知らず遠い記憶の向こうへと連れていかれるのだ。
 そうしたさらに微細なディテールに見入りだすと、また時を忘れる。ここに堀川さんの透明水彩の凄みがある。

・・・・・

 つらつら書いてきたが、まだこの絵本の魅力のいくらも書けていないので、安心して絵本を開いてほしい。読む人によって、時によって、気分によって、ページがいくらでもふくらむはず。

 そして、うれしいことに、現在荻窪の本屋Titleで『海のアトリエ』の原画展を開催中。わたしは原画主義ではないけれど、この光や風や揺らぎは、生の透明水彩を見ると、いっそうぐっとくる。展示のレイアウトも心地よく、潮騒が聞こえてくるよう。(絵本では原画をこう変えたのか!)などと納得させられる発見も。

 へらっとあどけない笑顔で人を油断させ、上手そうに描くことを誰より嫌う画家の透明水彩のテクニック。原画展には行けないけれど、もっと深入りしたいという人には、『身近なモチーフで始める水彩画』(堀川理万子著 誠文堂新光社 2018)はいかが。『海のアトリエ』の絵描きさんが愛用している、赤いケトルの表紙が目印よ。
 

 

ほりかわりまこ/1965年東京都生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。画家として活動しながら絵本作家、イラストレーターとしても活躍している。おもな絵本に、『権大納言とおどるきのこ』(偕成社)、『くだものと木の実いっぱい絵本』、『おひなさまの平安生活えほん』(ともにあすなろ書房)、『けしごむぽん いぬがわん』(ひさかたチャイルド)、『びっくり まつぼっくり』(多田多恵子/文 福音館書店)、『氷河鼠の毛皮』(宮沢賢治/作 三起商行)などがある。www.rimako.net

堀川理万子 『海のアトリエ』原画展
東京・荻窪 Title(タイトル)2階ギャラリー
 
2021年6月5日(土)~6月29日(火) 東京都杉並区桃井1-5-2
営業時間/12時~19時半(日曜日は19時まで、※最終日6月29日(火)は17時まで) 休/水曜・第三火曜日、6月17日(木)は臨時休業日
 


 

広松由希子 ひろまつゆきこ/絵本の文、評論、展示、講座や絵本コンペ審査員などで活躍中。2017年ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)国際審査員長。著作に絵本『おかえりたまご』(アリス館)、「いまむかしえほん」シリーズ(全11冊 岩崎書店)、訳書に『ローラとつくる あなたのせかい』(BL出版)、『ヒキガエルがいく』(岩波書店)、『うるさく、しずかに、ひそひそと』(河出書房新社)など。2020年8月3日より、絵本の読めるおそうざい屋「83gocco(ハチサンゴッコ)」を東京・市ヶ谷にオープン。www.83gocco.tokyo



東京都新宿区市ヶ谷に「えほんとごはん」のお店ができました。団地の一室をリノベーションしたささやかなスペースですが、和洋中さまざま、日替わりのおそうざいと、セレクトされた国内外の絵本をお楽しみいただけます。世界各国の絵本関連展示のほか、子ども向けの文庫、大人向けの絵本イベントなどもぼちぼち開催していきます。 最寄り駅は大江戸線牛込柳町。神楽坂、市ヶ谷、曙橋も徒歩圏内。お散歩がてらお気軽にお立ち寄りください。

えほんとごはん 83gocco
東京都新宿区市谷加賀町2-6-1 市ヶ谷加賀町アパートA-102  営業時間/11時〜19時 定休日/日・月 


   
「83gocco(ハチサンゴッコ)」店内 撮影/志田三穂子

 
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